1954年
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 1950年の2リーグ分立時には8球団だったセントラル・リーグであったが、たった1年で西日本パイレーツが姿を消して、7球団になってしまった。奇数の球団数は試合の消化効率が悪い。
 そこでリーグは7球団から1球団を減らして、現在の6球団制に移行するコトにした。そして勝率3割を割ったチームは解散という規定を設けて52年のシーズンを戦った。
 結果、勝率2割8分8厘で最下位となったのが、50年の優勝チームで、戦前からの老舗球団である松竹ロビンスだった。経営難から、優勝に貢献した真田重男、大島信雄両投手を放出し、ロビンスは弱体化していた。松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併することになり、大洋松竹ロビンスという球団が誕生する。
 大洋ホエールズは下関を拠点に球団をスタートさせたが、親会社の資本力はあっても、球団経営という意味では苦しく、合理化と2球団が合併した結果、得られるであろうチーム力の向上を狙っていた。
 ところが松竹は合併直前に、小鶴誠などの打の主力選手を放出してしまう。チーム力向上という大洋の思惑は外れてしまい、両者に不信感が漂う事態となってしまった。
 それでもリーグの仲介で、なんとか合併に持ちこみ、正式決定したのが53年の1月10日であった。
 しかし新体制を確立してシーズンへ突入するには時間が少なすぎた。対等合併という形で話は決まったものの、両者に不信感が渦巻いていたためか、球団本体の合併は先送りとされ、大洋と松竹の球団事務所が、そのままシーズン突入後も並立して存続したのである。その結果、選手の給与も大洋系の選手は大洋の球団事務所から、松竹系の選手は松竹の事務所から、それぞれ支給されていた。
 で、実は、この球団のゴタゴタはユニフォームにもあらわれておりまして、デザイン決定についての意志の疎通すら欠いていたらしく、1年の間で5種類ほどのユニフォームがとっかえひっかえ使用されていたのであった。
 正式に両球団の合併が成立したのはシーズンが終了してしばらくたった53年の12月16日。株式会社大洋松竹球団が設立され、球団名称は大洋松竹ロビンスから洋松ロビンスとなった。
 正式に合併球団が発足、成立したという事実は、54年のユニフォームにも現れていた。この年はホーム、ビジターともに1種類づつ。大洋松竹とロビンスの頭文字であるTSRのアルファベットを左胸にアレンジしたデザインの基本は、白のホーム、グレーのビジター共用で、まさに姿形から球団内部のゴタゴタがすっきりと片付いたコトを印象付けた。