1955年、前年に創設され、その一年目に8球団中6位の好成績をあげた高橋ユニオンズに、待望のスポンサーがついた。
当時、宣伝に力を入れていたトンボ鉛筆で、チーム名もトンボユニオンズと改められ、ユニフォームの胸マークにもこの会社の商標であるトンボの絵がUNIONSの文字と共に登場した。
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300勝をあげたスタルヒン。写真提供ベースボールマガジン社 |
トンボの商標は27(昭和2)年に制定され、創始者が重んじた「客に深く頭を垂れる商いの姿勢」を表すため、トンボが頭を下に向ける形で描かれていた。
ところが2年目のユニオンズは開幕から連敗。当時の野球誌には「あの急降下しているトンボのマークを逆にしたら」なんて、商標の意味を無視した自棄っぱちな意見まで登場していた。そして浜崎真二監督も途中退陣。笠原和夫主将が代理監督に就任するが、最後まで勝率3割がやっとの最下位で、結果パ・リーグの勝率3割5分を割った球団は制裁金500万円の規約が適用され、トンボ鉛筆は制裁金を支払うハメになり、スポンサーを一年限りで降りてしまったのであった。
しかしそんな中で大記録も達成されている。9月6日、V・スタルヒン投手が西京極球場の対大映スターズ戦で、当時、史上初の通算300勝を達成する。そのとき彼が着ていたのがTOMBOWのグレーのユニフォームだ(これはのちに記録の見直しで302勝目に改められ、実質的な300勝目は6月28日川崎球場の対スターズ戦。こちらはトンボマークのユニフォームを着用)。そして彼はこのシーズン限りで引退した。つまりこの二枚はスタルヒン現役最後のユニフォームでもあったワケだ。示されている。
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吉澤野球史料保存館のスタルヒンのユニフォーム。トンボのマークが取り外されている。 |
現在、スタルヒン最後のユニフォームは野球体育博物館が所蔵しているが、このうちトンボマークを外し、UNIONSの文字だけが残るホーム用ユニフォームが、JR総武線下総中山駅近くにある吉澤野球史料保存館に貸し出され展示されている。
でも、なぜトンボのマークが外されてしまったのか。
もともとユニフォームは選手個人ではなく球団の所有物で、当時は使用したユニフォームを翌年、練習用や二軍用に再利用していた。おそらくこのユニフォームもスポンサーのマークだけを外して再利用するつもりだったのだろう。
スタルヒン自身はこのトンボマークなしのユニフォームを、56年7月16日後楽園球場でのオールスターゲームの前座で行われたOB東西対抗戦で着用している。しかし彼は翌57年1月12日に交通事故で急死。このOB戦が最後のユニフォーム姿となってしまった。
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