1950年
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 戦時体制下の1941年、元東京セネタースの翼と名古屋金鯱が合併し大洋という球団が誕生した。
 この球団は西武鉄道が資金援助を行っていたが、戦争が激化した43年2月、九州の西日本鉄道に経営母体が移り西鉄というチーム名になる。
 しかし戦時中の西鉄球団は結局一年ももたず、12月には解散してしまったのであった。
 終戦を迎えた45年、プロ野球球団は続々と復活をとげたが、この時点では西鉄球団の復活はなく、選手たちは他球団に散らばってしまった。
 ところが世の中が落ち着きを取り戻しつつあった50年、コミッショナーに就任した正力松太郎の「日本もアメリカのように2大リーグで行くべきだ」という2リーグ発言から、プロ野球機構の日本野球連盟の周辺がにわかに騒がしくなってきた。戦後復活を果たしたプロ野球は、娯楽に飢えていた人々に熱狂的に迎えられ、その人気は沸騰していた。
 そのため正力発言はプロ野球進出を目論む数多くの企業は数多を刺激したのである。そして西鉄も再びプロ野球チームの結成に動き始めた。
手前、川崎徳次、後方、武末悉昌の両投手。
 当初、西鉄は戦前の経緯から、復帰という形での連盟加盟を申請したが、戦前に解散という手続きをとっていたために受け入れられず、他の企業と同じように新加盟の申請を行うコトになった。
 そしてこの騒ぎは結局、セ・パ2リーグ分立という事態を招き、西鉄は電鉄会社が数多く加盟する、パ・リーグに加盟するコトになった。
 そしてチームのニッネームはファンから募集してクリッパーズと決定する。西鉄クリッパーズ(翌年からライオンズ、現西武ライオンズ)の誕生である。
 ニックネームについての詳しい話は、ニックネームのページを見ていただくコトにして、さて、この球団が創設一年目に使っていたユニフォームの話である。
 当時の資料をいろいろ調べて見た結果、この球団は全部で3種類のユニフォームを使っていたようだ。
 まずひとつは厚いウール地で作られたベージュのユニフォームで、左胸に小さくCLIPPERSの文字が入っていた。
 左胸に小さくネームを入れるのは当時の流行で、これは49年に来日したサンフランシスコ・シールズのスタイルを踏襲していた。クリッパース以外にも、大洋ホエールズ、広島カープ、松竹ロビンスなどが、このスタイルを取り入れている。
 そして、首回りから前立てには二本のラインが入っているのも、このユニフォームの特徴だ。
 それから帽子は紺色で西鉄の社章がマークとして使われていた。
 ふたつ目はおそらく夏用だったと思われる白いユニフォームで、胸に大きくCLIPPERSの文字が紺色で入り、その輪郭を黄色が囲んでいた。
ライオンズ時代の縦縞のグレーのユニフォーム。

 黄色のNと紺のCを組み合わせた帽子マークもちょっとモダンな感じである。 
 紺と黄色は西鉄のチームカラーで、球団旗もライオンズ時代を通じてこの二色が使われていた。
 そしてあともうひとつ、胸にFUKUOKAという文字の入った縦縞のグレーのユニフォームがあったのだが、こちらはセ・リーグの西日本パイレーツと合併してライオンズとなった翌年も使用されていた。こちらは写真で掲載しておきます。