1961年から67年
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 1960年、読売ジャイアンツの水原茂監督は、ライバル三原脩監督率いる大洋ホエールズとの優勝争いに破れ辞任。11月19日に川上ヘッドコーチに監督の座を譲りジャイアンツを退団した。
ホーム用ユニフォーム姿の水原監督と張本勲選手。写真提供ベースボールマガジン社
 しかしそれからわずか一か月もたたない12月8日、水原さんはあらたにパ・リーグの東映フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)の監督に就任する。
 当時、水原茂という人にはダンディというフレーズがよく使われていた。つまりお洒落さんだったワケですが、確かに昔の水原さんの写真を見ると、自宅でくつろぐ和服姿も粋だし、洋服姿も黒の帽子にチェスターフィールドコートで決めていたり、レザーパンツなども愛用していた。
 そして水原さんはユニフォームにも、かなりのこだわりをもっていた。
 フライヤーズの監督就任にあたっても、ユニフォームのデザインを一新している。
 新ユニフォームの帽子、ストッキング、胸のネーム、背番号などに採用された色は焦げ茶色だった。当時の野球雑誌やスポーツ新聞の記事にはえび茶なんて記述もあるが、要は濃い茶色ですね。
 ホーム用の胸マークは新しくデザインされたFLYERSの文字、ビジター用にはそれまでのTOEIではなくジャイアンツと同じフランチャイズのTOKYOという文字が入った。
 この新ユニフォームが登場したのは61年2月25日の阪神タイガースとのオープン戦だった。
ジャイアンツのようだと言われた胸マークTOKYOのビジター用。左から土橋正幸、安藤元博、尾崎行雄の各投手。写真提供ベースボールマガジン社

 しかし焦げ茶は遠目で見ると黒に見える。しかも文字を囲んでいるのはオレンジ色だったため、ビジター用はなんだか一見ジャイアンツのユニフォームによく似た感じになってしまった。
 そのため三塁コーチス・ボックスに立ってブロックサインを出す水原監督を見て、「まだ、巨人の水原のような錯覚をする」というファンもけっこういた。
 しかし一見ジャイアンツ風ではあるけれど、このユニフォームには、実は水原監督らしい、ちょっとした洒落た工夫が施されていたのである。
 パッと見ただけでは気がつかないが、ホーム用のFLYERSのFの文字をよく見ると、鳥が空を飛ぶ形になっている。
67年のオールスターゲーム直前に突如出現したビジター用。TОEIの文字の輪郭、ラインは金モールだった。当時ルーキーの大下剛司選手。写真提供ベースボールマガジン社
 子供時代からボクはこの隠し絵のようなデザインに気がついていて、大人に説明すると、みんなが驚くのでちょっと楽しかったコトをおぼえている。
 そして62年、水原監督は張本勲、尾崎行雄などの若手の活躍でパ・リーグを制覇。そのまま日本シリーズでも阪神タイガースを破って日本一に輝いた。
 このユニフォームは67年のオールスターゲーム直前、ビジター用ユニフォームが濃いブルーになり、胸マークもTОEIに変更されたが、ホーム用は水原監督が退団する67年いっぱいまで、デザイン変更もなく使用された。
 そしてフライヤーズとしては東急から東映、日拓ホーム時代をふくめ、唯一、優勝、日本一を経験した栄光のユニフォームでもあった。