1969年から73年
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 セントルイス・カージナルスが来日して、赤い旋風を巻き起こしていた1968年の11月14日、中日ドラゴンズの監督に水原茂が就任した。
 東映フライヤーズを退団し、一年間の評論家生活をへてのカムバックである。
ホーム用上、ビジター用下、共にモデルは70年に入団。新人王に輝いた矢沢健一選手。写真提供ベースボールマガジン社
 この年、セ・リーグではかつて水原さんの下でヘッドコーチをつとめていた川上監督率いる古巣の読売ジャイアンツがV4を達成していたが、ドラゴンズは最下位だった。
 ま、言ってみればドン底からの再スタートだったワケですね。
 しかし水原さんは相当に張り切っていたらしく、ユニフォームのデザインも自ら手がけている。
 当時、メジャーリーグで進行しつつあったのが、ユニフォームのカラー化だった。来日したカージナルスの赤を多用した派手なユニフォームは、当時のプロ野球ファンに強い印象を残していた。特にカージナル(紅スズメ)とバットを配した胸のロゴマークは印象的だった。
 そこで水原さんもドラゴンズのユニフォームを派手にしようと考えた。ただし彼は赤という色については、ジャイアンツ時代に苦い体験をしていた。2リーグ分裂の50年と翌51年、それからカラーテレビが登場した60年に、ジャイアンツはユニフォームに赤を使って失敗している。
 両方とも自らの監督時代で、自他ともに認める球界きってのベストドレッサー水原さんにとっては千慮の“二”失だった。
 そしてドラゴンズ自体も、68年に使用したノースリーブのユニフォームに赤(スカーレット)を使って大失敗をしていた。
 前轍を踏まず。そこで赤にかわる派手な色として、水原さんが採用したのがスカイブルーであった。
 この色を胸マーク、背番号、帽子、ストッキング、アンダーシャツに採用。そして赤の使用はホーム用のロゴマークの輪郭と、袖の竜マークについていた中日新聞社の社章(72年から金色になる)だけにとどめた。
 だが、残念ながら、結局、水原さんの監督在任期間はわずか3年で終わりをつげ、彼は球界から完全に引退する。ただしユニフォーム自体は、次の与那嶺監督時代も2年だけ継続して使われた。
 しかしこのユニフォームで印象的なのは、なんといってもマンガの『巨人の星』だろう(あのマンガのユニフォームは意匠関係で見ると、正確さという意味ではずいぶんと問題があったし、特にアニメは胸マークがDだけで、無茶苦茶に省略してあったけど……)。
 カージナルスからドラゴンズに入団したアームストロング・オズマ、星飛雄馬の父である星一徹、それから伴宙太が着ていたのがこのユニフォームだ。
 しかし実際のチームの成績は水原時代の69年が4位、70年5位、71年2位。与那嶺時代は72、73年ともに3位。このユニフォームの時代はV9に突き進むジャイアンツを阻止するまでには至らなかった。