1966年から68年
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 国産初の長編テレビアニメ、手塚治虫原作の『鉄腕アトム』の第一回目がフジテレビで放送されたのは1963年の正月元旦だった。翌年には東京オリンピックをひかえ、この時代の日本は大きく変貌をとげつつあった。
 高速道路や新幹線の開通、都市の再開発、街では未来への槌音があっちこっちで響いていた。未来に対して、何の疑いも抱いていなかったこの時代、その未来社会が舞台となった『鉄腕アトム』は子供たちから熱烈な支持を受け、視聴率は常に30パーセント台をキープ。ときには40パーセントを超えるコトさえあった。
 そしてアトムは球界へも進出する。
 65年のシーズン途中の5月10日、国鉄スワローズの経営権は、フジテレビと同系列のサンケイ新聞に譲渡され、球団名はサンケイスワローズとなったのだが、翌66年の1月7日に、少年ファンの開拓を見込んで、サンケイアトムズと改称されたのである。
 左袖に空を飛ぶアトムが描かれた袖章がついたユニフォームが登場。
 当時、少年だったボクもアトムズ・ファンに衣替えしようかと、心が動いた記憶がある(結局、ホエールズを見捨てるコトは出来なかったけど……)。
 このユニフォームのポイントはといいますと、やはりなんと言ってもデザインを担当したのが、亀倉雄策と石津謙介だったコトだろう。
 亀倉さんは当時のグラフィックデザイン界の第一人者で、東京オリンピックのポスターを手がけたコトで、一躍時代の人となっていた。
68年からチームの指揮を執った別所毅彦監督。写真提供ベースボールマガジン社

 彼は斬新なアイディアをユニフォームにも盛り込んでいた。
 たとえば胸マークのチーム名を頭文字もふくめて、すべて小文字でatomsにしたのもそのひとつだろう。英語のセオリーに反するこのスタイルは、後にも先にもアトムズのユニフォーム以外では見たコトがない。
 ちなみにビジター用は、当初、大文字のSANKEIだったが、6月に登場した夏用ユニフォームから、こちらもsankiと、すべて小文字に改められた。
 そして背番号に採用されていたのは斜体文字で、これも亀倉さんならではのスタイルである。
初期型のビジター用はSANKEIの文字が大文字たった。当時の助っ人L・ジャクソン。写真提供ベースボールマガジン社。
 一方、石津さんは言わずと知れたVANの創設者。60年代にアイビー・ファッションで一時代を築き上げたファッション界のリーダーだった。この人も実は東京オリンピックに関わっていまして、開会式で日本選手団が着た真っ赤なブレザーなどをデザインしていたのである。
 ユニフォームの裁断やラインどりなど、服飾関係は石津さんの担当だった。
 しかしこのユニフォームで、ボクは一個所だけちょっと気に食わないところがある。
 それは帽子。VAN
 どういうワケなのか、ヒサシの上に、まるでゴルフ帽みたいな、ヒモがついていたのである。正直言って、これは「石津さん、お仕事しすぎ」という感じである。
 マンガ界の第一人者の手塚治虫、グラフィックデザイン界の第一人者亀倉雄策、そしてファッション界の第一人者石津謙介。各界のトップランナーが力を合わせて製作したコトで、当時、アトムズのユニフォームは「日本一のユニフォーム」と呼ばれていた。
 ところが肝心のチームの成績は、66年最下位、67年5位、68年4位。少しづつ浮上はしているものの、日本一には程遠かった。
 そして球団運営も行き詰まり、69年にはヤクルトがスポンサーとなって、ユニフォームの形も変更を余儀なくされる。
 結局、日本一のユニフォームは、わずか3年しか使われなかったのであった。