1958年
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 もしプロ野球史上、最も弱いチームはどこかと聞かれたら、ボクは迷うコトなく1958年の近鉄パールスをあげる。
 なにしろ全130試合のうち、勝ったのはたった29試合のみ。あとは97敗4分で、その勝率を計算すると、なんと2割3分8厘。
 これではまるで、非力バッターの打率である。
 この年、パ・リーグの最多勝は稲尾和久投手の33勝だから、なんとなんとチームの勝ち星が稲尾投手ひとりにも追いつけない有様だったのだ。
ビジター用独特の背番号の書体。36番は蔦行雄投手。写真提供ベースボールマガジン社
 で、実はこの最悪シーズンのスタート時、パールスはホーム用、ビジター用ともに、ユニフォームを新調していたのである。
 まずグレーのビジター用は胸マークがそれまでのゴシック体から飾り文字に変更され、袖には近鉄の社章が付いていた。
 そしてなんてったって変わっていたのが背番号で、イラストでは2しか紹介出来ないが、パールス体とでも表現するしかない独特の書体が使われていたのである。
 しかし大幅にイメージを変更したのがホーム用だ。以前は胸マークなどすべて紺でまとめた地味なデザインだったのだが、新ユニフォームは赤が大胆に使用されていた。縦縞だけは従来通りの紺だったが、胸マークや背番号、そして帽子の庇からアンダーシャツ、ストッキングにいたるまですべて赤だった。
オールスターゲームでひとり目立ってしまった小玉明利選手。写真提供ベースボールマガジン社

 突然の派手な変身に選手たちも戸惑いは隠せず、当時の『週刊ベースボール』によりますと、主砲の小玉明利選手は「まるでちんどんやですよ……」とぼやき、斎田忠利選手も「勝っているときはいいけど、負けているときはみっともなくて……」と大胆なデザインに気押されている様子だった。
 その結果なのか、すでにシーズン半ばのオールスター戦の頃には最下位も決定的。で、そんな状況を反映して、パールスからオールスターに選ばれたのは小玉選手たったひとりきりだけだった。
 ところがオールスター第一戦の平和台球場で、集まった観客とセ・リーグの選手たちから注目を浴びたのが、たったひとりで参加した小玉選手であった。
 普段パールスが平和台球場で着用するのはグレーの地味なビジター用ユニフォーム。観客ははじめて見る赤いユニフォームにびっくり仰天し、セ・リーグの選手たちも「噂には聞いていたけど、あれほど真っ赤とは思わなかった」と驚きの声を上げていたそうだ。
 今、見るとどうってコトない色使いだが、当時はユニフォームといえば紺や黒でシックにまとめるのが常識で、この色使いはかなりセンセーショナルだったようだ。
 しかし翌59年、千葉茂氏が監督に就任。
 ニックネームもパールスからバファローとなり、世間を驚かしたパールス最後のユニフォームは、たった一年だけで姿を消すコトになった。