マニア心をくすぐるその球歴。
 プロ野球OBクラブで『週刊ベースボール』で連載していた『ユニフォーム物語』の取材相手を探すために名簿を調べていると、ひとりのOBの経歴に目が止まった。
「板倉正男 大塚アスレチックス(国民リーグ)、金星スターズ、大映スターズ、高橋ユニオンズ」
 その在籍球団の経歴は、なんともマニア心をくすぐるものがあった。
 プロ野球選手としてのスタートは、戦後すぐの昭和22年に設立され、たった一年で姿を消した幻のプロ野球リーグと言われている国民リーグの大塚アスレチックス。
 この大塚アスレチックスはリーグ解散のあと、昭和23年2月26日に現在のプロ野球機構につながる日本野球連盟の金星スターズと合併する。で、どうやら板倉さんも、そのままこの球団の一員となったらしい。
 さらに金星球団は昭和24年、中部日本ドラゴンズから脱退した選手を集めた大映球団と再び合併して大映スターズとなる。板倉さんはプロ野球人生のほとんどをこの球団で送ったようだ。
 しかし最後は昭和29年に誕生したばかりの高橋ユニオンズに移籍している。この球団は当時7球団制だったパ・リーグを8球団制にするために、かなり無理をして作った球団で、結局、存続したのはたった3年。この球団の崩壊で、パ・リーグは6球団制の道を歩むコトになった。
 資料によると、板倉さんはこの球団に一年間在籍したあと、昭和30年には選手生活を終了していた。
 しかしそれにしても、大塚アスレチックス、金星スターズ、大映スターズ、高橋ユニオンズ。すべてプロ野球史の中に幻のように消えてしまった球団だ。
 ボクのマニア心はムズムズと動き始めた。

やっと見つかった本から。
 興味深い話が聞けるかもしれない。それに幻の球団のユニフォームについての手掛かりもいろいろと掴めるかもしれない。高橋ユニオンズについては、すでに数多くのOBの方々と会って、ほぼ取材は終了していたのだが、国民リーグ、金星スターズ、大映スターズについては、まだまだ分からないコトだらけだった。
 さっそく板倉さんが関係した球団の資料を集めてみるコトにした。
 まず国民リーグに関する資料というと、真っ先に押さえておかなければならないのが、阿部牧郎さんの実録小説『焦土の野球連盟』だろう。
 この小説は大塚アスレチックスのオーナーであった大塚幸之助を主人公に据え、わずか一年の命だった国民リーグの興亡を描いている。野球史関係の本を読むと、国民リーグに関しては必ずこの本が参考資料として紹介されていて、事実関係の資料的価値もかなり高いとされる。『焦土の野球連盟』は昭和62年にサンケイ出版から出版され、その後、平成2年に双葉文庫で文庫本化されていた。ところが残念ながら現在は両方とも絶版になってしまっている。
 で、とりあえず古書店回りをして探したのだが、これがなかなか見つからないので困ってしまった。阿部さんの本の場合、官能小説関係はよく目にするのだが、なぜか野球小説はほとんど姿を見かけない。
 古書店の人に聞いたところでは、阿部さんの野球本は店頭に並ぶと、わりとすぐに売れてしまうそうだ。どうも近ごろは野球マニアが増えているってコトなんですかね。
やっと見つけた『焦土の野球連盟』サンケイ出版刊

 しかし本を探し始めて三ヶ月ほどして、野球関係に強い代々木の古書店『ビブリオ』から、「手に入りましたよ」という連絡が入った。野球本にはホントに強い頼りになる古書店だ。
 さて、入手した『焦土の野球連盟』の中で板倉さんはどう描かれているのか。
 読んでいくと板倉さんは後半に登場する。
 千葉商業を昭和18年に卒業し、高校時代は関東一の速球派投手と言われていたという。
 どうやら、かなりレベルの高い投手だったらしい。
 しかし昭和18年というのは戦争末期。当時の職業野球は細々と活動を続けている状況だった。結局、板倉さんは職業野球に進むコトなく、戦後は地元の郵便局に勤めて軟式野球をやっていたようだ。
 しかし戦後、アスレチックスと契約した元名古屋金鯱軍で捕手をしていた長島進選手に誘われて、入団するコトになったという。
 当時、大塚アスレチックスの選手たちは、松戸にあったオーナーの大塚幸之助が経営する傘会社の、金町の従業員寮に寝泊まりしていたのだが、板倉さんだけは千葉の実家から通っていたそうだ。当時はまだ街中は焼け跡だらけ。住宅事情は最悪で、従業員寮はアスレチックスの選手に歓迎されていた。しかしそんな時代に自宅通勤。板倉さんは当時でも恵まれた環境で生活していたコトが想像出来る。
 そして大塚アスレチックスの国民リーグのデビュー戦であった7月の夏季リーグ開幕戦に先発する。つまり球団の創設初戦、最初の試合の開幕投手だ。まさしく板倉さんはアスレチックスのエースだったワケである。
 しかし残念ながらこのときは4対3で、先にリーグ戦に参加していた結城ブレーブスに破れてしまう(国民リーグは3月に春季リーグをスタートさせていたが、このときリーグ戦に参加していたのは宇高レッドソックスと結城ブレーブスの前身であるグリーンバーグの2球団のみ。大塚アスレチックスと唐崎クラウンの2チームは夏のリーグ戦から参加した)。
 ずいぶん分かってきたぞ。

で、本の最後には登場人物の説明が出ていまして、こんなコトが書いてあった。
高橋ユニオンズ時代の板倉捕手。

「板倉正男 二十三年、金星入り。合併により二十四年大映スターズへ移る。この年から捕手に転向。二十七年ごろから正捕手。二十九年高橋ユニオンズへ移籍。この年をもって退団。以来、社会人野球、ゴルフ場勤務などをへて、現在、船橋カントリークラブ支配人。五十九才」(この本が出たのは昭和六十二年)。
 しかし板倉さんがその後、捕手に転向していたとは驚いた。
 投手から捕手。あまり聞いたコトがないけど、昔はそういうコトもあったらしい。
 そしてこのあと金星スターズ、大映スターズに関しては、当時の野球雑誌を中心に写真資料を集めて、ボクは板倉さんに連絡をとった。
 で、2000年の3月のある日、自宅にお邪魔するコトになったのである。
 約束の日の朝、突然、プロ野球OBクラブから電話がかかってきた。いつも資料集めに協力してくれているWさんだった。
「今日、板倉さんのお宅に行かれるそうですね。板倉さんからお電話ありまして、当時の写真がほとんどないと心配されていたんですが、大丈夫でしょうか」
 板倉さんが在席していた各球団の写真はだいたいそろっている。ボクは大丈夫だと思いますと返事をした。
 そしてOBクラブのWさんは「じゃあ、そう連絡しておきます」と言って電話を切った。
 板倉さんは取材の前日に、いろいろと資料を探してくださったようだ。で、資料があまりないコトに気づいて、わざわざ連絡してくれようだった。ホントに几帳面な人だというコトがこれでよく分かった。
 最初っから資料はある程度そろっていると説明しておけばよかったのに、なんだか申し訳ないコトをしてしまった。
 そしてこの日、ボクが千葉県にある板倉さんの自宅の最寄り駅に到着すると、ご本人がクルマで迎えにきてくださっていた。
スタルヒンと組んだ黄金バッテリー。
「もう50年くらい昔の話だから、記憶もずいぶんと曖昧になってしまって、どこまでお話出来るか分かりませんが……。でも、もう話が出来る人もなかなかいないでしょう。ついこの間も、私がアスレチックスに入るきっかけを作ってくれた、同じ千葉出身の先輩の長島進さんが亡くなってしまいましてね。知らなくてあとで聞いてビックリしたんだけど、私にとってはプロ野球界に入るきっかけを作ってくれた恩人だったんでね。がっかりでした」
 板倉さんはクルマの中で、こんな話をしてくれた。元金鯱軍の長島進さんは残念ながらすでに鬼籍に入られていたようだ。
 ベースボールマガジン社の『プロ野球60年史』という本で調べてみると、長島さんも面白い経歴の持ち主だった。
 長島さんの経歴はこうだ。昭和13年に名古屋金鯱軍に入団し昭和15年まで在席。昭和22年に大塚アスレチックス入団、しかし国民リーグ消滅後、いったんプロ野球界から姿を消す。ところが昭和25年の2リーグ分立の年に29歳で毎日オリオンズに入団し、翌26年に読売ジャイアンツに移籍して2年間在席した。しかし不思議なのが名古屋金鯱時代は出身校が関東中学(現在の千葉敬愛高校)と書かれているのに、オリオンズ入団時には日大になっているコトだ。国民リーグ消滅後に大学に行っていたようだ。当時はこういう選手もいたんですね。
 自宅の応接室にお邪魔して、板倉さんから話を聞き始めた。
後楽園球場で投球練習中の板倉投手。
「アスレチックスで今でもよく覚えているのは、はじめて後楽園球場で試合があったときのコトですね。私は自宅から通っていたので、ひとりで球場に行くコトになったんですよ。ところがね、後楽園なんかそれまで行ったコトがない。東京はね、神宮球場なら六大学野球を見に行ったコトがあったんだけど、後楽園はなかった。とにかく水道橋駅で降りろと言われて行ったんですけどね、駅に降り立ったら周囲にはビルしかない。千葉の田舎から出てきた私のイメージとしては、駅前からパッと見渡せばグランドが見えると思っていたんですよ。ところがそんなものはどこにも見あたらない。で、ちょっと歩いてみたんだけど、よく分からなくてね……、バットケースとか野球道具を持ったまま、駅に戻って駅員に聞いたんですよ。後楽園球場はどこですかって。そうしたら、その目の前の建物だって言うでしょう。恥ずかしい話だけどね、まさかね、そのビルディングみたいなのが球場だとは思わなかったんですよ」
 しかし後楽園球場に気づかなかった板倉さんだが、その日の試合にいきなり先発。結城ブレーブスのエース林直明投手と速球を競い、結果は3対4で惜敗する。
「当時は遠征が多くてね。夜行列車で移動するワケですよ。で、汽車だったから窓から石炭のカスとかが飛んで来るし、窓を閉めていても、どこからともなく煙が入ってきて、朝起きると服が真っ黒になってしまう。そこで誰が考えた方法か知らないけど、新聞紙の真ん中に穴を明けて、そこから頭を通して寝たりしていましたよ。網棚に寝たコトもあったなぁ。車掌に怒られるんだけど、席で寝るよりよっぽど楽でしたね」
 今のプロ野球選手の移動はグリーン車だけど、当時はたとえチームのエースであっても一等車(当時のグリーン車)に乗るなんてありえない話だった。
「でも、そのあと木庭(巌)さんが入団して、私は二番手投手になってしまい、それで国民リーグが解散して金星スターズに入団したあとは、なんでもやりますという感じでキャッチャーに転向したんです。野球選手には一流と二流があるけれど、私はその間の一・五流よりは少しマシの一・三流くらいの選手でしたね。二軍落ちはせずにベンチにはいつも入っていて、試合にもちょくちょく出させてもらえるけれどという選手。しかしね、この一・三から〇・三を取るのがたいへんなんですね。今でもよく覚えているのはね、藤本監督から、『お前、外野守れるか』って聞かれて、なんとか出来るでしょうと言ったら、ホントに守らされちゃってね。巨人戦の最終回ですよ。確か2点差かなんかで勝っていてね、ランナーがふたり出ていて、そうしたら打球が飛んで来たんです。今でもそうだと思うけど、当時の後楽園球場の観客席なんて巨人ファンしかいないワケですよ。で、みんな落とせーって叫ぶワケ。これがものすごいプレッシャーでね。グラブには当てたんだけど気がついたらボールはポトっと下に落ちてたの。もう、頭にカーッと血が上ってしまって、次は飛んでこないでくれぇと思っていたら、また飛んで来たんだ。で、またもやエラー。結局、逆転されて、そのあとしばらく藤本監督は口も聞いてくれなかったなぁ。試合にも出してもらえないし……。自分にも生活があるから、あれは辛かった。今なら、そんな本職じゃない選手を使う監督が悪いんだよって思えるんだけど、当時は純粋だったし、まともに落ち込んでましたね」
 そんな板倉さんがスターズで正捕手の座を獲得したのは、昭和27年ごろ。捕手転向からだいたい4年後だった。
大映スターズ時代のV・スタルヒンの力強い投球フォーム。

「球を受けていていちばん凄かったのは、やはりスタルヒンでしたね。速い球というのは、こっちに飛んでくるときにグワッと浮き上がってくるイメージがあるでしょう。ところがね、もっと速い球というのは違うんだな。ユラユラユラって感じでブレながらこっちに来るんですね。スタちゃん(スタルヒン)の球はまさにそれだった。だいたい150キロくらいは出ていたでしょう。それでしかも荒れ球で、顔のあたりにブラッシングボールみたいな球を投げるものだから、阪神から毎日に行った別当(薫)なんか怖がってしまいましてね。よく『スタちゃん、やめろよ!』なんて言って、ぜんぜん打てなかった。別当はスタちゃんが苦手でしたね。まあ、もっとも、最後の高橋ユニオンズの頃は蚊が止まりそうな球しか投げられなかったけど、全盛期はすごかったですよ」
 昭和20年代の中頃に大映スターズで一時代を築いた、このV・スタルヒン&板倉正男のバッテリーは、昭和29年ふたりセットで誕生したばかりの高橋ユニオンズへ移籍する。
「しかしあの頃はね、もうそろそろ限界を感じていたし、まあ、自分から身を引くような感じでやめたんですね。ちょうど年齢も30代に入った頃だったし、潮時かなと思いましてね。それで社会人野球に行ってサラリーマンになったんです。先のコトを考えたら、やっぱりね。野球解説者になれる選手なんてひと握りだし、今でも早目に辞めて正解だったと思っています。そうそう、引退してサラリーマン生活をはじめて少しして、スタちゃんが通算300勝をあげましてね。わざわざ会社まで訪ねて来てくれたんですよ。板倉さんのおかげだってね。彼は律義だったよね。それで会議室でふたりで話しをしていたら、ガラスごしの部屋だったから外から見えるんですよ。で、会社の同僚たちに『板倉さんはすごい。英語しゃべってる』って感心されたりしてね。スタちゃんは日本人とまったく同じなのにね。顔が外国人だからね。戦争中はそれで苦労したみたいだけど」
 当時はプロ野球もまだまだマイナーで、通算300勝をあげたスタルヒンが旧制旭川中学出身で、日本語を当たり前に喋れるというコトも、あまり知られていなかったようだ。
「そしてそのあとゴルフ場で仕事をするようになりましてね、これはホントに楽しかったですよ。おかげでゴルフのハンディキャップもあがりました。とにかく空気はいいし、都会で働いていたときと違って、シャツがぜんぜん汚れないんだな。まあ、我ながら悪い人生じゃなかったと思ってますよ」
 板倉さんは自分の人生を淡々と自信を持って語ってくださった。
 20代まではプロ野球選手としてやりたいコトをやる。しかし30代を過ぎたら地道にコツコツと生きていく。なんとなく板倉さんの几帳面な性格が人生設計にも現れているような気もした。
 で、このあと板倉さんは国民リーグ各球団、それから金星スターズ、大映スターズのユニフォームについて、ボクに細かくレクチャーしてくださったワケですが、この成果は「ユニフォーム物語」の連載でいろいろと活用させていただいた。
 板倉さんがいなければ、幻の球団のユニフォームを再現するコトは不可能だった。この場を借りて、改めてお礼を申し上げたいと思います。