「ユニフォーム物語」の取材は名人からスタートした。
『ユニフォーム物語』の取材で、最初に会っていただいたOBが苅田久徳さんだった。
 苅田さんは1911(明治44)年生まれで、横浜の本牧中学から法政大学へ進学。1931(昭和6)年に読売新聞が招請したアメリカ大リーグチームとの日米野球で全日本チームの遊撃手として選ばれる。大学卒業後はNHKに就職。しかし1934年のベーブ・ルースが来日した第二回日米野球にもチームの一員として選ばれ活躍。そしてこのときの全日本チームを母体として創設された「大日本東京野球倶楽部」(のちの読売ジャイアンツ)に入団し、第一次アメリカ遠征にも参加している。
 ところがフロントとの確執からジャイアンツ退団第一号の選手となって、1936年、新たに創設された「東京野球協会」(東京セネタース)に入団する。二塁手として華麗な守備で名人、天才とうたわれ、自らが扇の要となった当時のセネタースの内野陣は「百万ドルの内野」と言われていた。
 まさにプロ野球界の最長老。苅田さんにはセネタース時代のユニフォームを中心に話をうかがうつもりで、横浜、洋光台のアパートの一室にあるご自宅にお邪魔したのは1999年の5月であった。
 入口のドアをあけると、ひとりの老人が背筋を伸ばして、椅子に座っていた。トレーナーにジャージというラフなスタイルで、耳には補聴器がついている。
 苅田さんだった。
 今、ボクの手元には、このときの対話を録音したテープがある。今回はそのときの模様をココで一部再現したいと思う。ちなみに()内はボクの注釈である。
 資料として持参した古い雑誌や写真をテーブルの上に広げると、苅田さんは語りはじめた。
創設時の大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)。
「ああ、これはね私の巨人時代の最後のころですよ。昭和10年にアメリカに遠征してね、このときのユニフォームの背番号は一番、二番ってね、漢字だったの。それからこの胸のマークはね、第一回渡米のときのマークなんだけど、日の丸にTOKYOって書いてあるだろう。ま、一応、オレたちは日本を代表して出かけたんだな。でも、アメリカも中部のほうに入っていくとね、ジャパンって言ったって分からねぇんだなぁ。みんな知らねぇんだ。そこでフランク・オドゥールと鈴木惣太郎が相談して、ジャイアンツという名前に変えて、残り70何試合をズーッと回ったんだ。シカゴから真ん中に抜けて……、ミルウォーキーだったかな。で、カナダに行ってバンクーバー、そこからワシントン。ワシントンというのはワシントン州のコトで、つまりシアトルだな。で、ココで数試合やって、サンフランシスコに戻って、帰国するために秩父丸に乗ったワケだ。そして途中ハワイに寄って5試合やって、7月の16日に帰ってきた。で、2、3日休んでいたらね、数寄屋橋にあった倶楽部の事務所から連絡があったの。そして新橋のいつも集まる宿屋に集合しろという命令が来たの。それで集まったらね、北海道遠征をするという話になって、そのときからですよ。GIANTSというユニフォームを着るようになったのは。それで背番号も漢字から普通の(アラビア)数字になったんだ。アメリカから帰ってきたら、国内の試合スケジュールも決まっていて、ユニフォームも用意されていたワケだ。それで最初は青森で試合をして、函館のオーシャン(球場)に行って、秋田から仙台、仙台から福島にきて、福島から宇都宮みたいな順序で回ったんだね。確か11試合かそこらやったはずだ」
 この当時のコトは今でも鮮明な記憶として残っているらしく、苅田さんはすごく饒舌だった。
 ちなみに苅田さんの語っているジャイアンツというニックネームの命名の顛末だが、選手たちのアメリカ上陸前に、アメリカに渡っていた鈴木惣太郎と世話役のフランク・オドゥールが「大日本東京野球倶楽部」では名前が長すぎるという地元新聞記者らの声を受けて考案し、選手たちの到着前から使い始めたというのが定説だ。苅田さんの上陸後の遠征の途中で決まったというのは、おそらく記憶違いではないかと思われる。
 そして苅田さんの話はさらに続く。
「で、このあとね、私は病気をしてね、巨人軍を追われるのよ。で、しょうがないから商売でもしようかと思っていたら、セネタースから迎えがきてね、有馬頼寧伯爵の使いだと言ってね、ウチでやってくれないかという話があったんですよ」
昭和13年は春のシーズンはイーグルスのバッキー・ハリスとホームラン王を争った。
 ボクはさっそくセネタース時代の写真を見てもらうコトにした。
「ああ、横沢(三郎)がいるねぇ……。これはオレだ。昭和13年か。最高殊勲選手になったときだな」
 写真が掲載されていたのは『野球界』という雑誌で、苅田さんの写真の下のキャプションには「超人プレーヤー」と書いてあった。苅田さんにそれを指摘してみるコトにした。
「ハハハハハ、そうかい。昭和13年は春のシーズンでイーグルスのバッキー・ハリスとホームラン王を争ってね。確か35試合でハリスが6本で、私が5本打ったの。当時はボールも飛ばないし、甲子園なんか両翼が100メートルもあってね、今は90何メートルだろう。この差が大きいんだ。私は気紛れバッターで、よーし打つぞってときにはわりと打ったの。だいたいランナーがいると打ったね。小細工してでも打ったね。だからね、苦手なピッチャーはいなかった。沢村がね、球が早いったてね、あんなのはカモ中のカモだったよ。球が軽かったからよく飛んだんだ。やっぱり球が重かったのはスタルヒンだね。でも、あいつはコントロールがねぇんだ。沢村は大きなドロップと150キロくらいの速球が武器で、まあ、確かに当時は六大学にも実業団にもあんなに速い球を投げるヤツはいませんでしたがね。ところがアメリカに行ったら、そんなのはゴロゴロいるの。驚いたねぇ(話は再びジャイアンツの第一次アメリカ遠征に戻る)。当時、アメリカの西海岸にはパシフィック・コースト・リーグって、今で言う3Aレベルのリーグがあったんだ。サンフランシスコにチームがあって、ロサンゼルスと確かハリウッドにもなにかあって、あとシアトルにもチームがあったっけな。ほかにもまだあったような気がるが……。まあ、とにかく、こいつらにはほとんど歯が立たなかったね。当時の日本の野球のレベルというのは、まあそんなもんだったんですよ」

当時の戦績とパシフィックコースとリーグ。
東京巨人軍 第一次アメリカ遠征 
対パシフィック・コースト・リーグ星取り表
3月2日 0対5 サンフランシスコ・ミッションズ
3月4日 12対5 サンフランシスコ・ミッションズ
3月9日 3対4 サンフランシスコ・シールズ
3月10日 5対6 サンフランシスコ・シールズ
3月13日 ●2対0 オークランド・オークス

3月14日

2対5 オークランド・オークス
3月16日 5対6 サクラメント・セネタース
3月17日 ●2対1 サクラメント・セネタース
3月20日 2対4 サクラメント・セネタース
3月21日 2対10 サクラメント・セネタース
3月23日 0対6 オークランド・オークス
3月24日 0対1 オークランド・オークス
3月25日 ●8対1 サンフランシスコ・シールズ
3月26日 1対9 サンフランシスコ・シールズ
3月30日 1対2 ハリウッド・スターズ
3月30日 4対8 シアトル・インディアンス
3月31日 ●6対5 ハリウッド・スターズ
3月31日 ●16対6 シアトル・インディアンス
4月1日 6対9 ポートランド・ビーバース
4月2日  1対8 ポートランド・ビーバース
4月4日 1対6 ロサンジェルス・エンジェルス
5月2日 2対5 ポートランド・ビーバース
5月6日 4対8 シアトル・インディアンス
 このときの戦績は75勝34敗1分。うちパシフィック・コースト・リーグ所属チームには6勝17敗。つまりパシフィック・コースト・リーグとは23試合戦った勘定になるワケだ。アメリカ遠征全75勝のうち69勝の相手はおもに、各地の在留邦人チームや民間チーム、大学チームだった。
 ちなみに当時パシフィック・コースト・リーグに所属していたのは、サンフランシスコ・シールズ(オドゥールが監督に就任したチームで、その後昭和24年に来日して大人気を博す)、サンフランシスコ・ミッションズ(のちにサンディエゴに移動)、オークランド・オークス、サクラメント・セネタース(のちにソロンズと改称)、シアトル・インディアンズ(のちにレイニアーズと改称)、ポートランド・ビーバース、ロサンゼルス・エンゼルス、ハリウッド・スターズの8球団で、東京ジャイアンツはこのすべてと対戦、はじめてのナイター試合も経験している。
「なにしろアメリカって言やぁね、昭和9年、コニー・マックが率いて、ベーブ・ルースがキャプテンだった親善チームね。これなんかでも、あれですな、スクリューボールって、球がひねくれて来やがる。あんな球、打てねぇなって思ったね。ただワシントン・セネタースの(アール・)ホワイトヒルって野郎がね、左ピッチャーだったけど、コイツの球がね、わりと素直だったの。で、こりゃまあ、なんとかなるだろう。打てるだろうと思ったけどね。日本軍でも、明治を出た桝(嘉一)って外野手がいたの。こいつがね細かくコツン、コツンと当てるバッターでね、けっこうホワイトヒルを打ったね(桝選手は第一回日米野球では全日本チームに参加していたが、ベーブ・ルースが参加した第二回日米野球で彼が所属していたのは第一戦のみを戦った東京倶楽部。苅田さんのいた全日本チームとは別のチーム。ちなみに桝選手はのちに名古屋軍に入団)。だけどアメリカで豪腕左腕と言われたレフティ・グローブだとかっていうと、まあ、やっぱりね、われわれではまったく歯が立たなかったよ。ふーッ」
 苅田さんは一気にしゃべって、大きな溜め息をついた。
助っ人も登場。
「しかしこれはどこのグラウンドだい……。ひょっとして上井草かな……。しかしあんた、いろいろな資料を持ってきたねぇ。こりゃ、まあ、古いねぇ。アンタもよく集めたねぇ。ウチにもいろいろあったけどね、戦争で焼けたり、それから写真は悪い新聞社のヤツに貸すとね、戻ってこないんだ」
 ああ、そうなんですか。すみません……。
 思わず謝ってしまう。同じマスコミ関係者として肩身が狭い。なんだか恐縮してしまう。
「この縞のユニフォームを着ているのはオレだな……。でもなぁ、こんなユニフォーム着ていたのかな」
 写真があるので着ておられたはずなんですが……。
「そうかぁ……。うーん、忘れたなぁ」
 しょうがないので、別の写真をひっぱり出して見てもらうコトにした。
「これはどこのだ。東京セネタースかい」
 そうです。
「私はプレイングマネージャーだったからね。選手やって、監督やってたの。当時の日本にはね、そんなの私しかいないの。(厳密に言うと、名古屋金鯱軍の岡田源三郎もプレイングマネージャーだったけど……)でも、そのころ大リーグには2、3いたの。だけど監督をクビになっちゃうとね、選手もクビになっちゃうケースが多かったんですよ。私の場合はね、監督になる人がいなかったの。私は監督と選手の二足の草鞋を昭和16年までやってたね。だけど監督の給料と選手の給料をくれるワケじゃなくて選手の給料だけだったけどな。ハハハハハ」
 そうなんですか……。
「セネタースはね、有馬頼寧伯と西武鉄道の堤康次郎が共同して金を出してはじめた球団だったんだな。堤康次郎は有馬に足りない分の金を出してやらせてやったって格好で、直接出てくるコトはなかったけど、代理の人が出てきたな。堤ってぇのは、戦後に衆議院議長なんかもやってね、そのころも国会議員だったはずなんだ。それから有馬伯は貴族院議員だった。で、上井草の球場ってぇのは西武鉄道が作ったの。あの球場は東京都にやっちゃって、確か6、7年前だったかなぁ……、東京都の広報課から連絡があって、一緒に見に行ったりなんかして、こんなに変わっちゃったんかねぇって話をしたんだ。これも古い写真だねぇ」
 苅田さんは再び写真に目を通し始めた。
「ああ、東急フライヤーズだ。コレは誰だ。白木(義一郎)か。戦後すぐのエースだな。しかしこの戦後すぐの時代は道具がどうしようもなくてねぇ。白木の野郎がね、ボールを投げても思ったところに行かねぇって、ぬかしやがるから、なんでだって聞いたら、ボールが勝手に曲がるってんだな。で、試合で使うボールを調べたら歪んでいるんだ。歪んでいるから投げると勝手に変化しやがる。まったくひでぇ時代だったよ」
 苅田さんの話は突然時代が前後するけど面白い。
「ああ、これは大下(弘)だ。これも早く死んじゃったねぇ。ああ、これは笠原(和夫)か。早稲田から南海に行ったけど、これも早く死んじゃった。これは別当(薫)かい。古いのがあるんだねぇ。私もこういう雑誌は持っていたけど、新聞と一緒に出しちゃったり、残っているのはもうごく僅かなのよ」
 苅田さんと写真を見ていると奥様がお茶を運んできて、脇から写真を覗き込んだ。
「おじいさん、この写真はウチにもありましたね。額に入っていたけど、戦争でみんな燃しちゃってねぇ。おじいさん、珍しいの見せていただいてよかったですね」
 苅田さんは奥様の声が聞こえないのか、そのまま写真を見続けていた。
「えーと、今日は何を話せばよかったんだっけ。そろそろ本題に行こうか」
 しばらくすると苅田さんは写真から顔をあげてこう言った。
 ボクは「ユニフォームについてお話をお聞きしたいんですが」と再び説明した。そして「特に色について分かると有り難いんですが」と付け加えた。
「そうかユニフォームの話を聞きにきたんだな。これはセネタースかい。どんな色だったかなぁ。おぼえとらんなぁ」
 苅田さんは考え込む。
現役時代の苅田さんと水原茂(右)。

 するとそこに助っ人として入ってきたのが奥様だった。
「私も昔はよく球場に行っていたし、ユニフォームもよくお洗濯していたんですよ。昔はね、みんな持ってかえってきて、家で洗っていたんです。だからよく見ていたコトは見てたんですが……、この縞のユニフォームは私の記憶では黒い縞だったと思いますよ。それで生地の色は白だったか、ねずみ色だったか……、おじいさんどっちでしたかね」
 奥様がかわりに答えてくれて、苅田さんに質問を投げ返す。
「縞は赤と黒があったような気がするなぁ。コレは黒だったかね。それで色はなぁ、ねずみだったと思うな。うん、ねずみ色だ。それから帽子の庇は紺だったかな。うーん、このユニフォームか……。しかしこれは誰だろう……。ああ今岡(謙次郎)か……。こいつは内野手だったなぁ。あれ綿貫(惣司)もいるな。こいつは立教から入って来たんだ。これは……、杉田屋(守)だって書いてあるよ。早稲田だよ、こいつは。イーグルスだ。ああ小島(利夫)もいるわ。早稲田の二塁手だ。これも早く死んじゃったね。彼はね、松竹の女の子と仲よかったんだ」
 話が他に行きそうなので、セネタースのストッキングの色について質問してみた。
「ストッキングは私も記憶にないですね。おじいさん、ストッキングの色ですって」
 再び奥様が話を取り次いでくれる。
「ストッキング? ああ、ストッキングか。いろいろな種類があったからなぁ。ただ紺に赤という組み合わせが多かった。この写真は赤と紺だ。だいたいチームカラーが紺と赤だったからねぇ。あの時代、学校はカラーを大事にしていたんだ。早稲田はえび茶で、慶応は紺と赤、明治は紫で、法政はオレンジで、立教は……、忘れたな」
 ……。
「おじいさん学校の話じゃないんですよ」
 奥様が話が逸れそうになると軌道修正してくださる。
「えーと、このセネタースのライオンのマークの入っているユニフォーム、マークのライオンは確か紺だったはずだがな……」
 軌道修正された苅田さんは写真を見ながら、再び記憶をたどりはじめた。
「それでラインは赤が入ってたなぁ。これは野口二郎か。このユニフォームは……、うん? 大洋の野口って書いてあるな。えっ大洋? 大洋って言ったら、下関の大洋漁業の大洋かい? あいつ大洋にいたかなぁ」
 ああ、それはセネタースが戦争中に翼軍になって、そのあと名古屋金鯱軍と合併して名のったチーム名です。
「ああ、そうか。忘れてた」
ベーブ・ルースにサインをもらった。
 写真に写っている野口選手は大洋のダークカラーのユニフォームを着ていた。セネタースと名のっていた時代にも、同じようなダークカラーで、マーク以外はほぼ同じデザインのユニフォームがあったので、そちらを着ている野口選手の写真もひっぱり出して、二枚並べて色について質問してみるコトにした。
「このユニフォームかね……。しかしこのセネタースのヤツは珍しい写真だねぇ。こんなに足を上げて投げていやがる。これはね、三宅大輔がね、ピッチャーは足をね、軸足は別にしてね、大きく上げてね、それで体を後ろにひねって投げないと、球のスピードが出ないというような話をしてたんだな。理論じゃないと思うけど、そんなコトを話していた。だから沢村なんかも、こうやって投げていたでしょ。あの頃はね、先輩がね、ワケの分からないコトをずいぶん言いやがってね。フフフフフ。せっかくいい選手をね、素質のあるヤツを駄目にしちゃうコトが多かった。そういう時代がね、戦後まであったの。特に戦後はコーチが多くなって、ああじゃねぇ、こうじゃねぇって教えやがるものだから、選手が迷っちまって、結局、自分を見失ってね、成功しなかったケースが多かったんですよ。バッターなんかでもね、ぽんぽんスタンドに放り込む力を持ってるのに、コーチがバッティングホームを変えさせたりして、駄目にしちまうケースが多かった。昔の選手というのは、わりに正直者って言うのかな。野球で身を立てようなんて考え方もなかったし、駄目になったら駄目になったで、家に帰って商売やればいいんだみたいな考え方だったから、それほど恨むヤツもいなかった。しかしひどかったねぇ。ホントにぶっ壊しちまうんだ、コーチが。勝手なコトを抜かしやがって、テメーの名前を上げようとして、球団に売り込もうとして、結果、パーにしてしまった選手は多かったのよ。かわいそうな話だよ。コーチもうまく行って一発当たったら大きかったんだけど、その陰には犠牲になった選手がたくさんいたの。だけど私らの時代はね、選手の特徴を生かして、それを伸ばしてやろうと指導したものですよ。で、そのためには努力しろというアドバイス、つまり叱咤激励だな、そういうコトはした。だけどこうしなければいかん、ああしなければダメだぞ、お前の成功は望めないぞというようなコトは言わなかったね。それで駄目なら、お前に素質がないんだ、あるいは努力がたらないんだというような指導をした。コーチの指導法も時代によって、いろいろ変わってきたな。たとえば荒川(博)が王(貞治)を指導したね。王っていうのはもともとはピッチャーなんだよ。しかし早実に入って、そのときにバッターとしてけっこう行けるという見方を荒川がしたワケだ。それでヤツを一本足にさせた。するとそれが図にあたって、ホームランを打ち出した。そうしたらあの格好が流行ったコトもあっただろう。それよりも前は、岩本(義行)だとか小鶴(誠)だとかっていうのがホームラン王だった時代があった。こいつらの打ち方はみんなアップライトですよ。一種のアッパースィングだな。あとからダウンスィングなんてぇのが出てきたけど、そんな打ち方はしなかった。アップライトの前のボクらの時代の教え方というのはレベルスィングでね、水平打法だということで教えていたの。ところがね、戦後すぐに小鶴がホームラン王になったら、アップライトだってコトになった。みんな打ち上げる。ですから当時はね、低い球をねピッチャーは警戒していたの。今は高い球を警戒するけど、あの頃はアップライトだから、高い球は安全だったの。今の人が聞いたらヘンな話だと思うかもしれないがなぁ。小鶴のアップライトは誰が教えたんだっけ……、確か新田恭一だったかな、いや違ったかな、わかんないけどそういう先輩がね。いたんだな。新田恭一ってぇのはね、慶応の大先輩でね、このあいだ死んだレスラーがいたでしょ。なんて言ったかな大きい野郎」
 ジャイアント馬場ですか。
「ああ、そうそうジャイアント。あれをね新潟に行って、新田が見て、あ、これは野球の素質があるってんで巨人に紹介したの。売り込んだの。でも、結局駄目でレスラーになっちゃったんだけどね……。えーと、ところで何の話だったのかなぁ……」
 あ、このユニフォームの色なんですが……。
「ああ、そうか、ユニフォームの色だな。この色か。グレーっぽい紺だったような気がするなぁ」
 苅田さんはコーチ論から、打撃論、それからジャイアント馬場の話まで一気に語ってくれて、最後にダークカラーのユニフォームの色を教えてくれた。
 しかしこれは苅田さんに限った話ではなくて、OBの方たちに取材をすると、毎回だいたいこんな感じになる。
 このあとも苅田さんは、いろいろな選手の逸話を次々に語ってくれた。ただしコレは、お元気な苅田さん、かなり暴走気味で、きわどい話が多くて、ちょっと原稿にするのは憚られる。今回は残念ながら割愛させていただくコトにする。
 結局、ボクは2時間くらいぶっ続けで苅田さんの話を聞いていだろうか。80歳を過ぎた老人に、こんなにしゃべらせてしまって、ちょっと心配になってしまった。
 で、「そろそろ御暇をしなくては」と言いながら立ち上がった。
「おじいさん、昔の写真をたくさん見せていただいて、急に元気になってしまって……」
 帰り支度をするボクに、奥様がそう言って笑っていたので、少しホッとした。
 最後に、持参したボールにサインをお願いするコトにした。
 ボールを受け取った苅田さんは、ペンを走らせながら、再び話をはじめた。
「私もね、ベーブルースに会ってサインしてもらったコトがあるのよ。(法政)大学にいたときにアメリカ遠征があってね、アメリカの東海岸を回ったの。で、そのときフィアデルフィアでね、アスレチックスとヤンキースの試合を見たの。ちょうどコニー・マック率いるアスレチックスが強かったころでねぇ、名捕手ミッキー・カクレンと剛球左腕のレフティ・グローブのバッテリーで、サードにジミー・フォックスがおったりで、最強のチームだったの。ちょうど見たときに投げてたのがグローブで、ヤンキースにはルー・ゲーリックやベーブ・ルースもいたんだけど打てやしない。確か試合は1対0でアスレチックスが勝ったんだけど、われわれの遠征に同行していた新聞記者(毎日新聞の高田市太郎特派員)が、『苅田さん、ルースのサインをほしくないですか』って言うものだから、『ほしいですよ』って、ボール持ってついて行ったら、まあー、偉そうな顔しててね、怖かったなぁ。負けたあとだったんで機嫌が悪かったんだな。あのサインボールは女優の高峰三枝子にやっちゃったんだ。今はどこに行っちゃったかねぇ……。さあ、出来た。こんな感じでどうかな」
 苅田さんはこう言って、最後にボクにサインボールを手渡してくれた。