プロ野球第一回ドラフト会議で指名された男たち。
消えた男たち
ドラフト20年
石川泰司
1986年 毎日新聞社



 プロ野球の第一回ドラフト会議が行われたのは1965年。今から40年前の話だ。
 65年という年は国鉄スワローズがシーズン途中の5月にサンケイ新聞社に身売りし、南海ホークスの野村克也選手が三冠王を獲得、読売ジャイアンツの9連覇の第一歩が記されたのもこの年だった。
 そんな第一回ドラフトで一位指名された選手たちの中で、球界に生き残ったのは読売ジャイアンツの堀内恒夫投手と阪急ブレーブスの長池徳二選手だけと言われている。
 この本はおもに、そんな第一回ドラフト会議で一位指名されながらも球界から消えていった男たちのその後を追っている。
 中でも目を引くのは、やはり東映フライヤーズのドラフト一位だった森安敏明投手のその後だろう。
 岡山の関西高校から入団したサイドスロー投手で、ホップする剛速球と、切れのいいシュート、高速スライダーを武器に入団一年目から活躍。本来ならば、堀内、長池と共に球界に生き残ってしかるべき逸材だったのに、1970年の「黒い霧事件」に連座。球界を永久追放となってしまう。
 球界追放後で印象的だったのは、無実を訴えていた彼が「ひとりぐらいは」という意味深なタイトルの歌で演歌歌手としてデビューしたことだ。当時、その挑戦的なスタンスにびっくりした記憶がある。
 その後の消息は知らなかったが、この本が出たのが86年、運送会社に勤めて着実な人生を歩んでいると知って、なんだかホッとしたのを憶えている。
 あの球界再編成のおりに、選手会が完全ウェーバー制のドラフト改革案をまとめたが、第1回のドラフト会議は、1順目は各球団の指名制で、第2順目からは、公式戦での下位球団から両リーグ交互に、さらに逆の順序で計2回の指名を行うウェーバー制だった。
 つまり一位指名のみが、指名球団が重なった場合、クジに運命をゆだねるその後のスタイルに近い形だったのだ。
 第1回ドラフトの一次指名は、各球団共に重複を恐れたため、競合したのは東映フライヤーズとサンケイスワローズが指名した森安敏明投手と、近鉄バファローズと広島東洋カープが指名した田端謙二郎投手だけだった。
 この本には田端謙二郎投手のその後も登場している。結局、彼はバファローズに入団したのだが、入団早々に肩を痛めて現役生活はわずか1勝で終了した。
 そして71年から打撃投手、スコアラーとなり、ピストル打線と言われていた近鉄打線を大型打線の「いてまえ打線」に変身させる仕事を陰で支え続け、ユニフォームだけは着つづけた。
 この本を読んで、「へー」と思ったのは、重複した二人の選手の指名獲得の方法だった。ドラフト会議で指名が重複した選手を選ぶ方法はクジという印象があるのだが、第一回目ではクジではなくてジャンケンが採用されていたという。
 森安投手はフライヤーズの田沢球団代表とスワローズの友田球団代表が「ジャンケンポン」とやって、行き先が決まったのだ。まだテレビ放映もない時代とは言え、人の人生を決めるにジャンケンとは恐れ入った。
 まあ、クジも似たようなものかもしれないが、人の運命を決めるシステムとして考えたとき、完全ウェーバー制の方が尊厳があるよう気がする。
 同じく「黒い霧事件」で永久追放された西鉄ライオンズ池永正明投手の復権が話題になりはじめた頃、よく森安投手はどうしているのかという質問を受けた。
 彼も池永投手同様ずっと無実を主張しつづけていたのだが、98年7月29日に心不全で亡くなってしまった。

綱島理友の古本野球史 第76回

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