日本人のプロ野球選手第一号は誰だったのか。
「ジャップ・ミカド」の謎
佐山和夫著
1996年 文藝春秋社



 野茂英雄がメジャーリーグにデビューした翌年、実は日本人第一号のプロ野球選手はアメリカで誕生していたという、驚くべきノンフィクションが出版された。
『「ジャップ・ミカド」の謎』。
 おそらくご存知の方も多いと思うが、あの佐山和夫さんの渾身の一作である。
 昭和初期に来日した黒人チームの取材をしているうちに、ぶち当たったのが、オール・ネーションズという独立リーグのチームの写真で、そこに写っていたのが日本人選手のジャップ・ミカドだった。このチームが創設されたのは1912(大正元)年。その名の通り、白人、黒人、ラテン系、インディアン、そして東洋の日本人などが集まる多国籍、多民族チームであった。
 日本最初のプロ野球球団である日本運動協会の創設が1920(大正9)年だから、この選手こそがおそらく日本人として第一号のプロ野球選手ということになる(現在ではそれより以前にもいたかもしれないという説もある)。
 しかしジャップ・ミカドとは誰なのか。佐山さんはその正体に肉薄していく。
 一応、ミステリー・ノンフィクションなので、その正体をバラしてしまうのは、ルール違反なのかもしれないが、話の展開上書かざるをえない。
 結論を知りたくない人はこの後を読まないでください。
 ジャップ・ミカドの正体は早稲田大学野球部出身で、当時、イリノイ州のノックス・カレッジに在籍していた三神吾朗という留学生だった。
 日本に野球が渡ってきたのは1873(明治6)年。東大の前身である開成校。当時はまだ第一大学区第一番中学という名称だったが、そこで数学や英語を教えていたアメリカ人のホーレス・ウィルソンという教師が、日本人生徒に手ほどきをしたのが最初だと言われている。この説に基づいた功績で、ウィルソンは平成15(2003)年には新世紀特別表彰で野球殿堂入りを果している。
 この流れから野球は一高に引き継がれ、明治時代の中ごろに日本野球の頂点に立っていたのは、この一高だった。
 一高時代に終止符が打たれるのは、明治37(1904)年。早稲田大学と慶應大学がそれぞれ一高を破り、日本野球の早慶時代がやってくる。
 そんな中で明治38(1905)年、早稲田大学野球部はアメリカ遠征を行った。
 この遠征で彼らは最新野球技術を日本に持ち帰る。グラブやスパイクといった用具からワインドアップ、チェンジアップといった投手のテクニック。ピンチヒッターの起用にスクイズ・プレー、そしてスライディングまで、本場のベースボールの真髄に触れて、それを貪欲に吸収してきたのである。
 三上吾朗が早稲田大学に入学したのは明治41 (1908)年で、第一回のアメリカ遠征の3年後であった。しかし彼は入学後、ハワイ遠征、第二回アメリカ遠征、フィリピン遠征に参加。海外への見聞を広めて、明治45(1912)年に早稲田大学を卒業すると、アメリカに渡ってノックス・カレッジに入学した。カレッジは語学研修として在籍していたようで、卒業はせず大正5(1916)年から早稲田大学の卒業資格でイリノイ大学の大学院に進んで、こちらを卒業し、三井物産に入社した。
 プロ野球選手となったのはノックス・カレッジ在籍中の夏休みで、アルバイトのような感覚で力試しにトライしたようだった。
こんな話をどんどん掘り起こしてくる佐山さんには、毎回驚かされるのだが、以前、ご本人とラジオ番組で対談させていただいたときに、この本にサインを頂戴した。
「野球無限」
 サインにこんな言葉が添えられていたのだが、確かに物書きのテーマとしても野球は無限である。


綱島理友の古本野球史 第37回

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