天勝野球団について唯一のまとまった資料。
異端の球譜
大平昌秀著
1992年 サワズ出版刊



 アメリカ大リーグのオールスター・チームを相手に、日本チームがはじめて勝ったのは大正11(1922)年11月のことだった。勝ったチームは三田倶楽部。慶応大学のOBたちのチームである。
 この年に来日した大リーグ・オールスターは、当時の一流大リーガーを集めたチームで、控えの外野手には、のちにニューヨーク・ヤンキースの名監督となるケイシー・スティンゲルも加わっていた。
 試合が行なわれたのは芝浦球場。ここは日本最初のプロ野球球団、日本運動協会(通称、芝浦協会)のホームグランドだった。
 この日、三田倶楽部の先発投手は小野三千麿で、彼とバッテリーを組んでいたのは森秀雄捕手。ふたりは大学時代からの名バッテリーだった。
 ひと目、本場の大リーガーたちのプレイを見ようと集まった観客たちにとっては、予期せぬ展開が待ち受けていた。小野投手は快調に飛ばして、大リーグの各打者を抑えていき、気がついたら9対3で三田倶楽部が勝っていたのである。昭和9(1934)年に、静岡草薙球場で大リーグ・オールスター相手に好投した沢村栄治投手の話は伝説となっているが、それより12年前に、すでに大リーグ相手に勝利を収めていた小野三千麿という投手がいたのである。
 当時の小野投手は東京日日新聞の記者だった。つまり記者をやりながら三田倶楽部で投げていたのである。
 そしてさらに彼は日本で2番目のプロ野球チームである天勝野球団のコーチもつとめていた。
 天勝野球団は大正10(1921)年に天勝奇術団、松旭斎天勝一座を今で言うところの親会社に設立された球団で、その運営を取り仕切っていたのは一座の支配人、野呂辰之助だった。当時の世の中は野球ブームで、天性の興行師である彼は、プロ野球球団の設立を思いつく。天勝奇術団の宣伝媒体として、球団を作ろうとしたのだ。奇術団が興行を行なう町に、球団が先乗りしてその土地のチームと試合を行ない、興行の宣伝をする。
 プロ野球球団天勝野球団設立の一年前に創設された日本運動協会は、欧米のクラブチームに近いスタイルの球団だったのに対し、天勝野球団は親会社の宣伝媒体という発想で作られていた。つまり日本プロ野球の原型とも言える球団だったのだ。
 もちろん野呂の頭には日本運動協会の存在というのもあったはずだ。運動協会の指導者は押川清、河野安通志という早稲田大学ОBだったのに対して、野呂は小野三千麿という慶應大学のОBを持ってきた。つまりプロ野球の世界で早慶戦をやろうとしていたのである。
 この2チームがはじめて対戦するのは大正12(1923)年の6月。場所は朝鮮の京城だった。このときは2試合行なわれ、1勝1敗の五分。そして8月30日、雌雄を決する第3戦が芝浦球場で行なわれた。このときは職業野球団同士の内地における初顔合わせということで、多くの観客が集まったという。
 結果は5対1で運動協会が勝利した。この調子でいけば、日本における職業野球も順調に育っていきそうな気配だった。しかし試合の2日後。すべてを無にする事件が起こる。
 関東大震災だ。
 芝浦球場は震災復旧の資材置き場として内務省に接収され、運動協会は阪急の小林一三が引き取り宝塚運動協会として関西に活動拠点を移したが、天勝野球団は解散を余儀なくされた。「異端の球譜」は、そんな天勝野球団の物語。この球団に関する唯一のまとまった資料である。

綱島理友の古本野球史 第33回

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