本邦初の野球の科学的分析。

野球の科学
バッティング
新田恭一、谷一郎監修
1951年 岩波書店刊



 戦後の昭和20年代に岩波書店が、「岩波写真文庫」という写真グラフの小冊子を出していた。その取り扱い品目は極めてアトランダム。バックナンバーのテーマのいくつかを紹介すると、「尾瀬」、「奈良の大仏」、「山の鳥」、「アメリカ」、「美人画」、「サボテン」、「電力」、「郵便切手」、「チューホフ」、「手術」、「星と宇宙」、「文楽」、「正倉院」……。
 とにかく写真で紹介出来るものはすべて取り扱ってしまうつもりだったらしい。しかし中には、「いったいこれはどうやって写真で表現したのか」と疑問に思ってしまうテーマもいくつか混ざっている。たとえば「チューホフ」や「電力」は写真でどう表現したのだろう。
 このあと出版界にはグラフ雑誌のブームがやって来るのだが、その先駆け的な存在が、「岩波写真文庫」だった。
 そんな「岩波写真文庫」のナンバー35として登場しているのが「野球の科学|バッティング|」である。刊行は1951年。監修は新田恭一、谷一郎だ。
 監修者のひとりである新田恭一という人は、当時「新田理論」と呼ばれる打撃理論をひっさげて、一世を風靡していた理論派コーチである。この本が出た前年にセ・リーグで優勝したのは松竹ロビンスだったが、この中に彼の教え子が何人もいた。そのひとりが51本の本塁打を放って本塁打王に輝いた小鶴誠選手。新田さんはチームの優勝に貢献した本塁打王を育てたというので、当時は一躍、脚光を浴びていた。
 そして新田さん自身も、51年から2年間、ロビンスの監督をつとめている。
 野球を科学的に分析して理論的に技術指導する。
 そんな発想を日本のプロ野球界にはじめてもちこんだのがこの人だったと思う。
 そもそも戦前からスタートした職業野球には、技術指導を行うコーチという存在はなく、技術は先輩の動きを見て盗んだり、自ら切磋琢磨して身につけるものだった。専任のコーチが選手を指導するなんて考えは、球団にも監督にもなかったのだ。
 プロ野球界におけるコーチの登場はセ・パが2リーグに分立し、松竹ロビンスが優勝した50年あたりからと言われている。
 その理由としては球団数が増え、選手層が薄くなったからという話を苅田久徳さんから聞いたコトがある。
「選手の人数が足らなくなってなぁ。プロとして使うには、まだ技量に問題のある選手も入ってくるようになった。だからそういう選手は育てないとならねぇんだ」
 苅田さんはベランメェ調で語っていたが、ご本人も、この年から毎日オリオンズのコーチに就任している。
 新田さんもそんなコーチのひとりだった。彼をロビンスに呼んだのは同じ慶応出身の水谷則一助監督だった。ただしこのときの新田コーチは正式の就任ではなく、球団名簿に記載はない。苅田さんら数人が日本球界ではじめて正式にコーチとして登録された。新田さんが名簿に登場するのは監督に就任してからだ。
 しかし新田さんの経歴は実にニークだ。もともとは慶応普通部で投手として甲子園に出場し優勝。そして大学進学後も主将として活躍。卒業後は関西の倶楽部チーム大毎野球団に参加。その後、方向転換してゴルフの道に進むためアメリカへ。そして31年には日本アマチュアゴルフ選手権などで優勝も飾っている。
 で、このゴルフのスィングを野球に取り入れたのが「新田理論」だった。当時はラビットボールと呼ばれる飛ぶボールが使用されていた時代。低い球をゴルフスィングのようにしゃくりあげて打つ打法は小鶴選手にホームランを量産させた。「野球の科学」にも、愛弟子小鶴選手のスィングの写真が登場している。
 しかし監督生活のほうは理論どおりとはいかず、52年は最下位に沈み、監督を辞任した。

綱島理友の古本野球史 第4回

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