名アナウンサーの豊富な引き出し。

多摩川巨人軍
野球人生に賭けた意地と誇り
越智正典著
1979年 日刊スポーツ出版社刊



 かつて読売ジャイアンツの二軍練習場のあった多摩川河川敷のグランド。そこで野球人生を賭けて、一軍の晴れ舞台にほとんど上がることなく消えていった男たち。その群像を日本テレビのアナウンサーだった越智正典さんが綴った本である。
 越智アナウンサーと言えば昭和30年代の日本テレビの巨人戦中継の実況だが、読者の中には「みゆき野球教室」の司会者として憶えている人もいるかもしれない。
 一時代を築いた名アナウンサーだったワケだが、この人は執筆活動も頻繁に行っていた。
 プロ野球の過去を調べるために、60年代あたりの野球雑誌に目を通すと、越智さんのコラムによく出会う。野球評論家が普通は書かないような、ユニフォームや道具、選手の給料や食事の話など、ボクにとっては非常に興味深い話を数多く残してくれている。
 この本にも興味深い話が次々に出てくる。
「戦争が終わって、合宿の歴史は千葉茂によって綴られていく。千葉茂は昭和20年秋、愛媛県の宇和島で“プロ野球を再開するから至急上京せよ”という電報を受け取り、急いで松山に出ると、顔見知りの運動具店に寄り、ありったけの野球帽と米をリックサックに詰め込んで上京、この合宿にたどり着いた。20年11月22日からはじまったプロ野球東西対抗戦の東軍メンバーとして出場した巨人軍の選手は、千葉が持ってきた帽子をかぶった。だからGのマークなどついていない。……」
 このときのプロ野球東西対抗は写真などの資料がいっさい残っていないので、当時の様子はこういう話を拾い集めて想像するしかない。
 千葉さんご本人から聞いた話では、そのあとユニフォームも生地を自ら大阪の美津濃の工場に運び込んで作らせたという。当時のジャイアンツは選手自らが道具係りまでやらないとならない状態だったのだ。
 その千葉さんが二軍監督になったのが昭和33年。当時、合宿所にいた十時啓視選手が、千葉二軍監督に最初に直訴したのが食事の改善だった。
「合宿の飯をドンブリの盛りきり……ではなく、おかわりが出来るようにしてください」
 このあとジャイアンツの合宿所の食事にはお櫃が出てくるようになり、おかわりが自由になったという。昭和33年といえば、長嶋茂雄選手が入団した年。当時の合宿所の待遇というのは、天下のジャイアンツでさえ、こんなものだったのである。
 以前、野村克也東北楽天ゴールデンイーグルス監督に聞いたところによると、南海ホークスの合宿所の朝食は、ご飯に味噌汁だけで、生卵をつけたかったら、30円払わないとならなかったという。プロ野球界にはそんな時代もあったのだ。
 一年後、千葉監督が近鉄バファローの監督に就任すると、ご飯のおかわり自由の恩を感じた十時選手は一緒についていくことになる。
 今、普通に使われている特訓という言葉が作られたのも巨人軍の多摩川グランドだった。
 越智さんはそのはじまりについても解説してくれている。作ったのは昭和36年に入団した牧野茂コーチ。当初、特別練習と言っていたのを、もっと強い表現にしようと特別訓練に改めた。そして略して特訓。これがマスコミで喧伝され、特訓は一般名称となった。
 こういう話がアナウンサーのネタの引き出しから次々と出てくる。そんな豊富なネタが散りばめられたプロ野球の実況中継を、もう一度観てみたい。

綱島理友の古本野球史 第42回

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