育ったところは気性の荒さで知られる福岡の炭鉱町筑豊。教育者で厳格だった父は小学校のときに戦死し、母親の手で育てられ東筑高校に進学。投手で四番打者として甲子園に出場しプロのスカウトの目に留まって数球団から誘われた。
彼が選んだのは契約金が最も安い地元の西鉄ライオンズ。決め手は「いやあ、僕に任せておけば大丈夫だよ。いらっしゃい」という三原脩監督の一言だった。
しかしこの選択は間違いではなかった。
仰木彬選手が入団した1954年。ライオンズは球団創設以来の初のリーグ優勝を飾る。
ただし残念ながら日本シリーズではフォークボールを操る杉下茂投手のいた中日ドラゴンズに敗れてしまう。
ところがルーキーの仰木選手は16打数5安打の3打点と活躍。妙な自信をつけてしまった。
結果、現役時代は本人言うところの「遊びの合間に野球をやっているような選手」となってしまう。キャンプでも、一度宿舎を飛び出すと戻るコトを知らない鉄砲玉。キャンプ地の島原から、天草まで船で渡り、朝の船で戻ればいいと遊び呆けていたら、翌朝、海は大しけで船は欠航。キャンプに戻ったときは昼過ぎたった。
だが、そんな選手に将来の指導者としての器を見抜き、目をかけたのが三原脩監督だった。
やんちゃな選手は入団3年目、合宿所近くの寺に下宿していた監督の元へ、毎日午前10時に通うコトを義務付けられた。監督自らの「寺子屋教育」が始まったのである。野球の話を中心に、技術、心構えといったものから、世間一般の常識、「ただ酒を飲むな」とか女性に対する注意にいたるまで、毎朝1時間、こんこんと説かれた。
それでも夜遊びはつづき、遊びの合間に野球やっている状態は継続された。
そんな中で西鉄ライオンズは三連覇を飾り野武士軍団と呼ばれるようになる。仰木選手もレギュラーとして、軍団の一角をしめていた。
「燃えて勝つ 9回裏の逆転人生」というこの本は、亡くなった仰木彬さんの自叙伝である。出版されたのは1990年のシーズン前だ。
近鉄バファローズの監督に就任したのは87年。翌88年には優勝を逃したけれど、日本中を感動させた、あの10・19があり、やっと89年に念願の優勝を果し、この本が出版されたワケだ。
89年の優勝で印象に残っているのは、やはり競り合っていた西武ライオンズと戦った10月12日の西武球場でのダブルヘッダーだろう。いわゆるブライアント選手の敬遠四球を挟んだ4連続ホームランの出た試合である。
私はある雑誌の取材で、この試合を球場で観ていた。何かにとりつかれた様な神がかり的な出来事にあっけに取られたのをよく憶えている。
一試合目はブライアントのホームランで逆転勝ち。第2試合もワンサイドでバファローズが勝った。この本もこの試合までがクライマックスだ。
仰木さんの訃報記事には野茂英雄、イチローなどのメジャーリーガーを育てた監督という見出しが各スポーツ新聞に躍ったが、本では野茂は期待のルーキーとして紹介されているだけだし、イチローに至っては影も形もない。
それにしても「燃えて勝つ逆転人生」の最後は、ガンを抱えながら監督として指揮をとりつづけるという壮絶な死で幕を閉じた。本当にドラマチックな人だった。
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