歴史は繰り返されるのか。

風雲20年
続背番号のない男の証言
石川春夫著
1975年 世紀社刊



 千葉ロッテマリーンズのファン、いやパ・リーグのファン、いやいやプロ野球ファンである人に是非とも読んでもらいたいのがこの本、石原春夫著「風雲20年」だ。以前、同じ著者の「背番号のない男」という本を紹介したが、その続編である。
「背番号のない男」は東映フライヤーズで球団代表だった著者の石原氏が、弱小球団時代から、昭和37年、水原茂監督のもとでリーグ優勝、日本一を果すまでを綴った半生記だった。
 石原球団代表はその後どうしたのか。
 彼はもともと東急電鉄から子会社の東映に出向していた役員で、東急から東映が独立するのを期に球団代表をやめて東急本社に戻った。そしてその後独立。自分で仕事を始めていた。
 昭和47年の1月、そんな彼に再び東急の五島昇社長から呼び出しがかかる。
 ロッテ・オリオンズの球団代表に就任して欲しいという依頼だった。当時、オリオンズのオーナーは中村長芳氏。もともと中村氏は永田雅一オーナーの時代から、オーナー代行を務めていて、永田氏の引退後、オーナーとなっていた。
 東急の五島社長は岸信介元首相の秘書だった中村オーナー、ロッテ本社の重光武雄社長とも親しかった。
 かつて仕えた社長のたっての頼み。石原氏は日本球界への復帰を決意する。
 しかし彼には当時の球界の厳しい状況が待ち受けていた。昭和44年に発覚した球界の黒い霧事件の後遺症があとを引き、パ・リーグは観客動員をはじめ、すべてが壊滅的な状況だった。
 彼が再び球界に足を踏み入れた頃から、一部オーナーの話し合いで密かに進行していたのが、オリオンズとフライヤーズの球団合併と1リーグ制への移行である。
 このへんの顛末は少し言及があるのみだが、今読むと生々しい。本には書いていないが、そもそも石原氏をオリオンズの球団代表として呼び寄せた五島社長らの思惑の中には、オリオンズとフライヤーズの球団合併、1リーグ制への人事的な布石といううがった見方も出来ないこともない。
 そして石原氏の球界復帰一年後に、西鉄ライオンズと石原氏の古巣である東映フライヤーズの身売りが起こる
 しかも驚いたコトにライオンズを買い取ったのは、オリオンズのオーナーとして石原氏を迎えた中村長芳氏だった。
 中村氏は黒い霧事件の後遺症で消滅の危機にあったライオンズを救うため、オリオンズのオーナーを辞して、私財で福岡野球株式会社を設立。昭和48年から太平洋クラブライオンズをスタートさせた。
 驚く事件が次々起こる中、石原球団代表自身が巻き込まれたのが、本拠地東京球場の閉鎖であった。
 永田オーナーが建設した東京球場は、永田氏の大映映画の倒産で、あのロッキード事件で被告となった国際興業の小佐野賢治社主の手に渡っていた。小佐野社主はロッテが買い取らなければ球場を閉鎖すると主張。結局、オリオンズは本拠地球場を失った。
 石原球団代表東映フライヤーズの代表時代にも駒沢球場の閉鎖という事態に陥ったが、神宮球場の使用という妙案で切り抜けていた。
 そんな中で彼が目をつけたのが仙台だった。これを働きかけたのが、当時、仙台に在住していた宇高勲氏で、この人は戦後すぐに設立され、たった一年で消えた国民リーグの創始者であった。
 オリオンズは昭和48年から仙台を準本拠地として、放浪生活を送るコトになるが、本の中で次々に出てくる1リーグ制、球団合併、球団身売り、そして仙台というキーワードは少し前に、プロ野球ファンが辟易するほど耳にした言葉である。
 そして激動の一年後の昭和49年、オリオンズは優勝、日本一を飾る。日本シリーズの相手は中日ドラゴンズだった。
 日本球界というところは、同じ歴史を繰り返す。歴史から何の教訓も学んでないということがよく分かる一冊である。

綱島理友の古本野球史 第60回

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