戦前から戦後のプロ野球の背番号をめぐる物語。
背番号への愛着
竹中半平著
1978年 あすなろ社 刊



 セ・パ2リーグが分立した1950年前後に、当時の月刊ベースボールマガジンで人気連載だったのが、「背番号への愛着」という読み物であった。
 著者は竹中半平。50年代に大活躍したプロ野球評論家のひとりである。
「もともとは彼の投書がきっかけでね。大井町のお医者さんだったんですよ。本名が竹中雪って名前だった。だから当時の池田恒雄編集長が女性だと思ってね。女性にしては野球に詳しいというので、呼ぶことにしたんですよ。そうしたら男性だったんだけど、戦前の職業野球の時代からプロ野球を見続けていて、造詣も深い。それで原稿をお願いするようになった人なんですよ」
 竹中半平という人について、ベースボールマガジン社の長老、田村大五さんから、そう教えていただいたのはずいぶん前だ。
「プロ野球ユニフォーム物語」の連載で、資料として使っていた古い野球雑誌をひっくり返していると、やたらとこの人の名前が目につくので、田村さんにどういう人なのかと質問したのだ。
 切り口というか、目のつけどころというか、何かスタンスのようなモノが、こう言っては失礼かもしれないが、竹中さんは私とよく似ているような気がしたので気になってしまったのである。
 本書「背番号への愛着」に出会ったのはコレクションしていた古雑誌に掲載された連載が最初だったのだが、雑誌の目次に出ていたタイトルを見たときからひきつけられた。
「ユニフォームにつけられた背番号をわが国のファンが初めて見たのは昭和六(31)年に読売新聞が企画した第一回日米野球と称する試合からで、(中略)このシリーズで全米は終始背番号をつけていたが、日本側は第六、第七戦の全日本軍だけが背番号をつけて神宮で試合をした」
 日本の背番号事始がココに書かれている。
 試合の経過とか、記録的な事実は資料としていくらでも残っているのだが、背番号をつけていたかつけていなかったかなんて事実関係は、竹中さんのような人がいなければ、後の時代の人間は知りうるすべがない。
「プロ野球ユニフォーム物語」の資料集めでは、竹中さんが残してくれた資料に何度となく助けられた。
 伝説の投手、沢村栄治の背番号の変遷も面白い。
 ベーブ・ルースと対決した34年の第二回日米野球で、沢村のつけていた背番号は8番だった。沢村と言えば、現在、ジャイアンツで永久欠番となっている14番を思い浮かべる人が多いと思うが、ルースと戦った試合の背番号は8番だったのだ。
 日米野球のあとに、大日本東京野球倶楽部、現在の読売ジャイアンツが結成されて、35年に武者修行で渡米するのだが、このときの沢村の背番号は十七番。漢字の背番号をつけていたので有名な大日本東京野球倶楽部のユニフォームだが、沢村の背中は十四ではなく十七がついていた。
 沢村が晴れて14番をつけるのは、帰国後の内地巡業からだ。
 そして実は沢村以降、わずかの期間だが、14番をつけた選手がいたという。46年に、なぜか今泉勝義、坂本茂というふたりの選手がつけていて、翌年から欠番となったようだ。
 こういう事実関係は、先達にちゃんと整理をしてくれる人がいると本当に助かる。
 創設された当時の大阪タイガースの背番号が名前のイロハ順だったという話を最初に知ったのも「背番号への愛着」の連載からだ。い1番伊賀上良平、ろ〜るはいなくて、お2番小川年安、3番岡田宗芳、4番欠番、わ5番渡辺一夫、か6番景浦将……という按配だった。
 そしてこのスタイルは、戦後の49年あたりまで、その匂いが残っていたそうである。
 竹中さんはその後、球団旗の変遷についての研究も月刊ベースボールマガジン誌上に発表していて、色についての記述もあり、戦前から戦後にかけての幻の球団旗再現にも、貴重なデータを提供してくれた。
 ちなみに「背番号への愛着」は1952年に、日本出版協同株式会社という出版社から単行本化されたが、その後、1978年に戦後のプロ野球の名著を懐かしむファンの手によって、あすなろ社より復刊された。

綱島理友の古本野球史 第10回

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