永田ラッパはプロ野球を愛したオーナーだった。
永田雅一の華麗なる興亡
大いなる終焉
山下重定著
1972年 日藝出版刊



 現在の2リーグ12球団制が成立したのは1957年の1128日、7球団だったパ・リーグで、大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併して大毎オリオンズとなり、6球団となったときからである。
 2004年に勃発した大阪近鉄とオリックスの合併による球界再編成騒動の中で、2リーグ12球団制が崩壊しそうになったが、この形を完成させたのは、大映ユニオンズのオーナーで、リーグ総裁だった永田雅一だった。
「永田雅一の華麗なる興亡 大いなる終焉」は永田ラッパと呼ばれたこの人の伝記本だ。
 弁がたち、映画界の寵児と言われた彼に、永田ラッパというあだ名をつけたのは、関西の映画ジャーナリストである。
 京都の没落した染物問屋の息子だった彼が、映画業界に入ったのは大正13(24)年、二十歳のときであった。知り合いのツテで庶務係見習い、つまり給仕として京都の日活撮影所に入る。
 彼が撮影所で台頭するきっかけは、昭和7(32)年におきた争議だった。彼は争議団の代表として会社と交渉。労働側と会社側の双方が受け入れられる折衷案を作り上げ争議を収拾した。
 争議をきっかけに脚本、制作、総務の三部長兼任という地位に抜擢された彼は手腕を発揮しはじめる。日劇を日活の封切館にしたり、他社のスターを強引に引っこ抜いたりと、豪腕ぶりも発揮する。
 しかし社長と対立し、日活を退社。自分自身の「第一映画社」を立ち上げたのが昭和9(34)年だった。だが、この会社は2年間で20本の映画を作って解散。最初の独立事業は失敗だった。
 だが、松竹から子会社の「新興キネマ」の建て直しを頼まれ、これを一年で立て直した。
 ところがいよいよこれからというときに、戦時体制に入った政府から、映画界に厳しい通達が発せられた。フィルムの原料は軍需品なので、大小十社もある映画会社をふたつにまとめろという指令である。
 彼は映画会社を代表して政府の役人と交渉。会社の数を二社から三社に増やし、東宝系、松竹系、それに日活と新興キネマを合併させた大日本映画という案を認めさせた。この大日本映画がのちの大映である。
 彼は映画界の旗頭のひとりとなった。
 給仕からのし上がった彼に、ある人が「豊臣秀吉みたいだ」と言ったところ、「わたしは秀吉が嫌いだ」と答えたという。
「秀吉という男は、人の心をつかむのがうまかったが、偉くなってからは地金が出て、あまりほめられた晩年ではなかった。若いうちこそ誠心というようなことを言っていたのに、成功したあとは、すべて口先や金で片付けようとしている。偉くなってから地金を出すような男は嫌いだ。人間、死ぬまで心が大切なのだ」
 成功したあとにギラギラした物欲や権力欲を丸出しにする男は好みではなかった。
 確かに晩年の球団オーナーとしての彼の動きを見ると、強引な選手の引き抜きなどは一切せず、トレードなども公正だった。そして私財を投げうって東京球場を建設するなど、ファンからも親しまれた。
 過去の人だから美しく見えすぎのような気もしないでもない。実際、子供時代に見ていただけだけど、当時のライブ感覚としては、正直、永田オーナーには、ちょっと胡散臭さも感じていた記憶がある。
 でも、今、改めて彼がプロ野球界で行ってきたことをひとつひとつ調べてみると、けっして悪いオーナーではなかった。とにかくプロ野球を愛した人だった。
 今はファンから憎まれているオーナーはいるけれど、親しまれているオーナーはいるのだろうか……。
 これが今のプロ野球界の一番の問題かもしれないとつくづく思ったりする。

綱島理友の古本野球史 第16回

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