「なんと申しましょうか」のしたいざんまい。
したいざんまい
私の懺悔録
小西得郎著
1957年 実業之日本社刊



「なんと申しましょうか」の名フレーズで知られた昭和の名解説者、小西得郎さんの自伝本である。そのタイトルが「したいざんまい」ときた。
 私の子供時代、NHKの野球解説者といえばこの人だった。刊行は昭和32年だから、解説者として一斉を風靡しはじめた頃の本である。
 生まれたのが明治29年。日本への野球伝来は明治初期で、中馬庚がベースボールを野球と訳したのが明治27年だから、小西さんはその2年後に生まれた勘定になる。この人はまさにプロ野球創世記どころか、日本野球創世記を知る人であった。
 小西さんが野球に目覚めたのは中学時代。スパルディング(スポルディングではなく、ご本人がこう書いている)のバットとグローブを手に入れ三年生で選手となった。ところがこれをきっかけに学業成績は急降下。そんな中、明治44年の8月、朝日新聞が「野球害悪論」のキャンペーンを開始。少し前に「武士道」で再評価された旧五千円札の新渡戸稲造らが論陣をはり、野球は相手をペテンにかける「巾着切りの遊技」などとこき下ろしたのが野球害悪論だ。どうも武士道の目には、野球の駆け引きは卑怯に見えたらしい。
 京都大学の講師だった小西さんの父親はこれに同調。実際、息子の成績がガタ落ちになってしまったのだから野球は害悪そのものだった。
 ここから父親との野球闘争へ。そして入学する大学で対立。本人は明治大学を選択して野球部へ。父親は息子をあっさりと勘当した。
 その結果、当時の遊郭にあった友人の家に転がり込む。ココで歌舞伎を知り、野球好きの尾上菊五郎などと親交を持つようになる。粋人小西得郎の誕生である。
 野球人としては明治大学野球部第8代主将となった小西さんだが、マネージャーに株屋の息子がいて、その家に出入りするうちに株を憶えてしまう。時は第一次大戦の好景気のバブル時代。株を買えば買うほど儲かった。調子に乗った小西青年は卒業後も、その株屋に就職。大正時代のバブル景気を謳歌。まさに「したいざんまい」の日々だった。
 ところが世界大恐慌がやって来てスッテンテンとなり準禁治産者に。父親の軍門に下り、言われる通り普通の会社へ就職した。
 しかしココも重役と喧嘩して辞表をたたきつける。その結果、再び家を飛び出し、手を染めたのがなんと中国でのアヘンの闇取引だった。
 これはちょっと小西さん「したいざんまい」のしすぎ、こういう話が平然と書かれているのにはびっくり仰天した。しかし背景に関東軍も絡んだ戦前の話。出版当時は戦前を知る人たちばかりだから、さもありなんと読み流されたのかもしれない。
 その後、アヘン取引から足を洗った小西さんは神楽坂を拠点にブラブラ放蕩生活。このときの仲間が明治大学野球部の後輩田部武雄選手だった。彼は読売巨人軍の前身、大日本東京野球倶楽部に入団し、第一次アメリカ遠征に参加したのだが、水原茂、苅田久徳両選手とチームに造反し契約解除。そこで自らの支援者に出資を仰ぎ岐阜にコームラント(鵜軍)という球団を作り、監督に小西さんを迎えようとした。
 だが、この球団設立は流れてしまう。しかし小西さんがプロ野球とかかわるきっかけとなり、その後、大東京の監督に就任。戦前は大東京、ライオン、名古屋軍、戦後は松竹ロビンス、大洋ホエールズ、洋松ロビンスの監督を歴任。特に2リーグ分立の50年には松竹ロビンスをセ・リーグ優勝に導き、歓喜の選手たちは小柄な小西さんを持ち上げて胴上げした。
 そう、小西さんこそ日本で最初に胴上げされた優勝監督でもあった。

綱島理友の古本野球史 第1回

 ●入手したい方は
  アマゾンで入手可能だが、さすがに希少本だけに高価です。街の古書店で地道に探すのも手かも……。